角田光代「私のなかの彼女」

うまく大人になれず、後悔を重ねる人へ。 

主人公の和歌は1990年代前半、バブルの終わりに大学生活を送る。恋人の仙太郎は、学生中にイラストレーターとしてデビュー、瞬く間に全国区の人気を博していく…。

この小説は、そんな二人のおよそ20年に及ぶ物語だ。

平凡な和歌と、特別な仙太郎との出会い

まず物語冒頭、この二人の関係性が、この物語の語り部である和歌の視点により規定される。『コインロッカー・ベイビーズ』を読み、クイーンを聞き、オールナイトニッポンを聞き、大学進学を目指していた地方の高校生だった和歌は、自分はクラスメイトより先んじているという自負があった。しかし、進学し新たなクラスメイトと交わる中で、自分はそれほど特別なわけでないことを思い知らされる。そして、そんな想いは仙太郎との出会いで決定的な劣等感へと変化する。

自分がかわいくないと知った十四歳のときのように和歌は気づかされる。仙太郎に比べれば、自分ははっきりと無知だった。無知ではないにしても、狭く偏った、所詮は頭でっかちの田舎者だった。 

 学生時代にイラストレーターとしてデビューし、業界人と付き合い、皆んなより先に大人としてのたくさんのステップを経験してく仙太郎。おまけに、彼には”知識があり教養がありセンスもいいと和歌には思える”のだ。

これ以降、和歌はずっと仙太郎からの評価におびえ、仙太郎の言葉に翻弄されて生きていくこととなる。

 物語が動き出す

そんな和歌に変化が訪れたキッカケは、2つある。

まず、同僚の九里子と行った香港旅行で、一人別行動で歩いた九龍城。違法の魔窟だと思っていたこの場所で和歌が見たのは、学校であり、煮物の匂いであり、歯医者であり、テレビであり、コンドームであり、麻薬であり、水道であり、ベッドである。

和歌は、想像を超えた場所である九龍城で見たそれらに衝撃を受け、自分にはこれらの光景を九里子に説明できないと思う。なぜなら、この場所は自分の言葉を超えているから。しかし、それでいながら、この場所にあるものは全て自分の見知ったものでもあったのだ。

私の知らないものなどひとつもないではないか。よくよく見知ったもので成り立っている。けれどそれを無数に積み上げていけば、この、緻密で猥雑で巨大な、人が作り上げたとはとても思えない異様な城になる。 

和歌がそこでふれたものは生活だった。”人ってすごくへんだけど、でも、やっていることはそんなに変わらなくて”、と、九龍城で受けた衝撃を、彼女は仙太郎にそうな風に説明し、人生観が変わったとまで話したのだった。 

そして、もう一つのキッカケは、祖母であるタエの存在である。6歳の時に亡くなった祖母の記憶は和歌にはない。 母である牧江からは醜女であったと教えられている。牧江は祖母について語りたがらず、牧江の妹である叔母とは疎遠になっていた。

そんなある日、実家の蔵の解体が決まり、蔵の中のものの仕分けを和歌は手伝う。その中で、大判の硯箱を開いた時に、ある本を見つけたのだった。それは、山口多栄という祖母と同じ名前の著者による本だった。その本の意味するとろこを和歌は分からないが、これは処分してはいけないものだということを直感が告げていた。

今まで謎だった祖母の実像に迫るため、和歌は叔母である房世に、祖母は何者だったのかを尋ねる。房世は、祖母は「作家だったのよ」と言った。しかし、それは結婚前のことであり、結婚後は書くことを辞めていたことを教え、書くことをやめた理由を、祖父が望まなかったからだと説明した。そしてそれに続き、物語の終盤まで和歌を縛り続けることになる、祖母の口癖と、その口癖の意味を、房代の口から語られることになる。

 男と張り合おうとするな、って。小説を書こうと思うなんて、ちょっと当時は飛んでる女だったみたいだけど、でも所詮は明治生まれの、男をたてる女だったと思うんだよね。女ごときが出しゃばるな、って。

作家だった祖母の存在は、和歌を刺激した。タエは、一体なぜ小説を書いてみたいと思い、なぜ書くことをやめたのか。”男と張り合おうとするな”とは、どういう意味なのか。それは九龍城で受けた刺激とあいまって、和歌の中に一つのフツフツとした感情を呼び起こした。”書いてみたい”。和歌は、祖母のストーリーを読んでみたいと思う。異様で想像が及ばない何かが出来上がるかもしれない。そのために、自分で書いてみよう。 

この二つのキッカケでこの物語は動き出す。和歌が書いた小説が、新人賞を受賞し作家としてデビューすることになったのだ。

 すれ違い、想像し、自分を納得させる。

この小説は、和歌と仙太郎のおよそ20年に及ぶすれ違いの恋愛小説だ。学生の間にイラストレーターとしてデビューした仙太郎と、社会人になってから小説家としてデビューし、いくつもの賞を受賞していくことになる和歌。

二人は相手の仕事の成果を素直に喜べない。二人は相手を取り巻く人間関係を認められない。二人は生活において相手が求めているものを受け入れることができない。おまけに、和歌はいくつになっても、どれだけ作家としての実績を積んでいっても、学生時代に自身が規定した仙太郎との関係性を変えられない。和歌にとっては仙太郎はいつまでも特別な人間であり、特別な人間であるゆえに、相手の等身大の日常生活を想像することができない。そして、仙太郎の言葉の一つ一つに、30代になり社会的にも成功し始めていてもなお、学生の頃と同じように怯え傷つかずにはいられない。

 

この小説の概略を述べるなら、きっと以上のようなものだ。すれ違うこと、それが丹念に描かれている。

気持ちがすれ違うたびに、人は相手を想像し、自分を納得させる。牧江がタエを醜い女だと想像し、納得したように。房世が、タエを結局は男をたてた明治生まれの女だと想像し、納得したように。和歌も牧江を、タエを、仙太郎を想像し、納得させ続ける。

想像し、納得させ、すれ違い、また想像し、納得させ続けるうちに月日は流れ、やがて取り返しのつかない事態へと陥っていく。どれだけ後悔しても、もう戻ることのできない事柄が人生にはあるのだと思い知らされるのだ。

和歌がそんな事態へ陥るたびに、心が抉られるような思いがする。もう二度と取り戻すことのできない時間、人生で何度も経験したそんな瞬間へと共振していく。

 14歳という年齢と通過儀礼

この小説にはもう一つ、14歳というテーマがある。1997年の少年Aの事件を題材に、「14歳」が一つのキーワードとして物語に放り込まれるのだ。

これから14歳って何かの判断基準っていうかキーワードになっていくと思うな 

 連日の少年Aの事件を報道するワイドショーを見入りながら、仙太郎はそう語る。

対して和歌は、14歳という年齢についてこう説明する。

子供から大人への通過儀礼をしていく年齢、つまり性が力として備わる過程にいる年齢。 

幼いころ、自分の母が世界で一番美人なのだと信じていた和歌が、そうでもないことに気づいたのは14歳の時であり、初潮を迎えた歳だった。それはまた、自身もそれほど可愛いわけじゃないことを知った歳でもあった。そう気づいたときのことを和歌は、”客観的に見れば”と説明したのだった。

そうしたプロットに気づいたとき、この小説は和歌の通過儀礼を描いた物語でもあることに気づくのだった。

14歳で自分の容姿を客観的に見た和歌は、『コインロッカー・ベイビーズ』やクイーンを聞いて大学に進学することで周囲のクラスメイトとは少し特別な存在だと信じるようになったにも関わらず、仙太郎と出会い、彼を絶対視し彼との関係にもがき続ける中で、一方的で主観的にしか彼を語ることができなくなっていった。そんな和歌の成長(通過儀礼)が、仙太郎との関係を客観的な恋愛小説として書き上げていく終盤で描かれることになるのだ。

 自分の言葉を超えた場所
 男と張り合おうとするな

 それが口癖だったというタエの姿を、和歌は十数年、想像し続けた。それはどういう意味であり、その言葉の背景にはどのような物語があったのだろうと和歌は想像し続ける。祖母の人生を、想像し続けるのだ。まるで、自分のなかにタエがいるように。”男と張り合おうとするな”、それは果たしてどういう意味なのか?房世の言うように、男を立てろという意味だったのか?言葉の意味を考え続けるうちに、和歌はやがて希望の物語を想像することになる。そしてその瞬間、和歌はしっかりとタエをつかまえることができたのだ。

”書きたという”気持ち、それはきっと自分の言葉を超えた場所にある気持ちなのだ。言葉にできないからこそ、書きたいのだ。言葉にできないからこそ、それは時に自身を孤独に、自己中心的にもしてしまう。しかし、言葉にできないからこそ、誰にも奪われることのない、究極の支えともなる。

 

すれ違い、想像の泥沼にハマっていく中で、希望を想像することを教えてくれる。これはそんな物語だ。

 

私のなかの彼女 (新潮文庫)

私のなかの彼女 (新潮文庫)